はじめに


「はじめに」で、いきなり結論から申し上げますが、どなたも、「いのちは自分のものではない」「今生きているのはわたしではない」ということを、はっきりつかまえなければなりません。

 

生きていることは神であり、神が生きているという事実はありますが、自分が生きているという事実はどこにもありません。

 

自分が生きているという思いは誤認であり、誤認であるということは間違っているということです。

 

「いのちは自分のものではないという立場」ではない立場、つまり「自分のいのちがある」という立場からいのちを考えてしまいますと、一切合切間違えてしまうことになります。

 

人間は「生きていることは、自分が生きていること」だと考えています。

 

「生きていること=自分が生きていること」だと考えています。

 

しかし、生きていることは自分が生きていることではありません。

 

生きていることは生かされていることであり、生かされているということは自分の力で生きていないということです。

 

今これを読まれている方の場合、鼻や口から空気を吸って、目を使って見て、これを読まれているはずです。

 

もしも目がなかったらこの文章を読むことができるでしょうか。

 

もしも空気がなかったこの文章を読むことができるでしょうか。

 

おれは視力が悪いが目が見えるなんて当たり前だろう。

 

あたしは空気がある世界に生まれているんですのもの、空気があるなんて当たり前よね。

 

人間は「目が見えることが当たり前」「空気があることが当たり前」だと思っています。

 

当たり前ということがあるでしょうか。

 

目を自分でつくれるでしょうか。

 

空気を人間がつくることができるでしょうか。

 

なぜ、目が見えるのか。

 

なぜ、空気があるのか。

 

そういうことを人間はまったく考えず、自分が生きていると思いこんでいます。

 

人間は「自分が生きている」「自分の力で生きている」と思い込み、それを疑うことすらありません。

 

しかし、はっきり申し上げますが、自分が生きているという思いは間違っているということです。

 

「ふむふむ、自分はいないのだな、でも今こうして生きているぞ、じゃこいつは一体誰だ」ということです。

 

いのちとは何か。

 

いのちは誰のものなのか。

 

いのちとは何であり、なぜ今こうして生きているのか。

 

「いのちは自分のものであり、自分が生きていて、自分の人生があって、わたしこそが世界の中心である」という思いがあるうちは、どんな理想も素晴らしいことも、それは自分発の自分を中心とする考えであり、自分という独房の中でのみ有効なことです。

 

自分の思いとは自分にだけ唯一通用する真理であり、そのような真理を真理とは言いません。

 

自分にだけ唯一通用する真理は独断と偏見に満ちており、それを真理と言えるはずがありません。

 

性別、年齢、国籍、年代にかかわらず、どんな方でも、「いのちは自分のものではなく、自分は生きていなくて、自分の人生はなくて、わたしこそが世界の中心であるなんてことはない」こと、つまり「自分がいないこと」をまずはっきりつかまえなければなりません。

 

般若心経に次の言葉があります(般若心経を宗教書として推薦するつもりは毛頭ありませんので、ご安心ください)。

 

不生不滅。

 

生まれて来たこともないし死んで行くこともない。

 

何が生まれて来たこともないし死んで行くこともないのかを、もう少し詳らかに言いますと、「自分が」生まれて来たこともないし「自分が」死んで行くこともないということです。

 

「自分がいる」「自分が生きている」という思い、つまり命を盗んでいる盗人の立場から、「自分がいない」「いのちは自分のものではない」という命の盗人をやめる立場に移ることを、どなたでも何よりもまずしなければなりません。